konpe's 夜の仕事記

民間セクター開発、BoP、Clean Tech

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ワインと開発と社会の学び(2)-周辺振り返りヨコ編

ひさびさにポーター授業の紹介、前回からちと間が空きましたが、 続きをば・・・と思っていたら、ワインの話よりもっと直接的に自分の思考を前進させる機会があったので、そっちの話を。

この授業は、ふつうのよりやや長め。週2回x2時間あるのだけれど、だいたい前半のケース議論(1時間半くらい) が盛り上がって長引き、教授による理屈の説明で残りの時間を使いきり、 個別ケースを超えた概念レベルの質疑応答の時間をほとんど持てないまま学期前半が終わりかけていた。授業で直接扱う内容 (ミクロ経済と戦略論に基づく国・地域の成長戦略、クラスター開発)と、直接は扱わない周辺領域(マクロ経済政策、通商、社会政策、 政策過程、文化、等々)との接点、みたいな話もポーター教授はけっこう好むのだけど、そういうヨタ話にもほとんど時間を割けていない。 それで、追加の補講をやるから興味のある人だけおいで、という話に。話してみたいことは山ほどあるので喜び勇んで行ってみたら、 来ていたのは100人近くの受講生のうち10人強。少人数でケースもアジェンダも何もなく、ポーター御大に言いたい放題・聞きたい放題、 というなかなかぜいたくな2時間。

この授業からの直接の学びに限らず、留学生活を通じた学びについていろんな振り返りを触発される機会だった。書き留めておきたいが、 その前に少々寄り道。

(1)教授観

先学期、今学期とTAをやって、 授業の目的設定とか日々の授業運営とかオフィスアワーでの個別補講とか学生の評価にかかわるようになってから、 自分の教授という人達にたいする見方、接し方がなんだか変わっていることに気が付く。別段自分がTAをやってない授業でも、 教える側の立場を思い描いて能動的・批判的に見るというか。「伝えようとしているキーアイデアは何か」とか、 「教えたい内容と教授法がきちんとマッチしているか」とか、「教授のこの質問の意図は何か」「思考を促し学びを深める良い質問かどうか」 「そういう質問を投げかけ続ける技能がどの程度高いか」「自分ならどうするか」。

さらにいうと、問いかけの仕方とかクラスの議論のハンドリングの仕方の背景には、クラスの社会的環境のつくりかた (どういう規範を打ちたて、教授の権威の境界をどこに引き、学生に逸脱の自由度をどこまで与えるか、等々)がある。 これは初回授業での教授の振る舞いで方向付けられ、教授法の枠組の中で2回目以降の教授と学生、また学生同士のインタラクションを通じて、 学生のある種の行動は周囲から容認、評価、促進され、 ある種の行動は抑止されるといったフィードバックループを通じて各人の頭の中に醸成されていく。授業の目的が学生の学びなのだとすると (そういう目的設定をしない教授もいるが)、授業運営の実践は「教えたい内容に関する学びはどのようにして起こるのか」 「学びが起きる環境とはどういうものか」についての教授各人の理論にもとづいているはずだ。 理論の大枠のところは学校単位で特定のものを採用して教授が皆従うことになっている、というふうに見える場合でも、 応用と実践の仕方で大きな違いが出る。そういう理論をきちんと意識に上らせて、 試行と修正を通じて教育効果を上げ続けようとする教授もいるし、理論を理論と気付かないまま暗黙の前提、制約("theory in use")として、教えたい内容と起きている学びの現実にギャップが生じても行動修正が効かない教授もいる("assumptions that you hold"と"assumptions that hold you"の違い)。いや、そもそも教えたい内容・ 起きなければいけない学びについて強い目的意識やこだわりや情熱があるか、目的達成に向けて能動的に動いているかどうか、 というところから違いが生まれているのかもしれない。

学者がキャリアを通じて果たそうとする目的は教育だけじゃなく研究もあれば実務家支援もあり、どんな時間軸で、 どんなミックスで社会に価値を出しつつ自分の好奇心なり認知欲なりを満たすか、というアプローチもいろいろ。取り組む問題に応じて学生、 学校、学内外の協働相手、研究資金元、研究成果をレビューするアカデミックコミュニティ、顧客(自分が生産する知識の消費者たる実務家と、 自分が生産する学生の消費者たるリクルーター)、等々いろんなステークホルダーがいて利害相反がある。志のある学者にとって、 そんな衝突と協業を指揮しながらいかに自分の志を保ちつつ生存を守り、集団の学びを促し、全体を進歩させるか、というリーダーシップ・ チャレンジは、企業家や為政者にとってのチャレンジとあまり変わらない。

そのへんの話をひっくるめて、「この人の教育・研究・実務に対する姿勢、動機、コミットメントはどういうものか」 「結果としてのパフォーマンスはどうか」「パフォーマンス(成功であれ失敗であれ)につながっている具体的行動は何か」 「行動の背景にある個人的・文化的背景、前提条件、盲点は何か」「今、そして未来のチャレンジは何か」 という視点で教授を見るようになったのだと思う。というか、 これはリーダーシップ授業のTA仕事で学生の学びを助けるための診断の視点そのものだし、 TAとして相応の時間をコミットしてでもこの教授を支援しつつ自分も学びたい、と思う時の視点でもあり、 コンサルタントとしてシニアなクライアントに接する視点に通じるものもある。姿勢、動機、コミットメントに賛同・ 共感できるような相手は好きになる(能動的に相手との関与度合いを深めチャレンジを支援する動機が強まる)が、そういう視点で、 ポーター御大のことはけっこう好きである。戦略論が飯の種、みたいな組織にいた者として、 飯の種の創始者たる御大の評価などおこがましいことこの上ないのだが、それでもあえて書くとすると3年間で接したスローン・ ケネディ両校の教授陣の中で、3番目か4番目くらいに好きだと思う(ちなみにトップ3は想像に難くないとおり、ロナルド・ハイフェッツ、 ディーン・ウィリアムズ、ピーター・センゲ)。

(2)ポーター観

ポーターが研究対象を企業の競争力から国の競争力に移してからの彼の一番の業績は、 どんなにグローバリゼーションやらIT革命やらが進んでも、地理的な産業集積の仕方が経済発展と競争力向上にとても重要・・・ むしろ知識の価値とイノベーションの重要度が高くなり、 トランザクションコストが下がって多国籍企業がますますバリューチェーンを世界中に散らすにつれて、地理的要因の重要さが上がる一方、 という洞察を示したことだと思う。経済地理学とかナショナル・イノベーション・ システムとか技術革新におけるソーシャルネットワークの役割とか、遡れば地理とか知識集積とかに着目した研究の流れはいくつもあったが、 戦略論から出発してそれらを統合したのがポーターともいえる。 消費者心理を理解せずに企業のマーケティング戦略などまともに考えられないのと同様に、企業の行動原理への洞察なくして投資誘致、 産官学連携、知識集積、等々を通じた国の経済成長戦略は本来考えられるはずがないので、彼がこの仕事をやったのはとても自然。

分析の焦点(unit of analysis)を特定の産業ではなく特定地域のミクロの各経済主体、政策決定主体、 知的生産活動主体にあてて、参加者間の競争と協業を通じた生産要素(天然資源、資本、人的・知的資源、社会資本) のアクセスと創出と呼び込みとアップグレード、地域間の生産要素の差別化、そして結果としての経済発展、というじつに豊かで複雑な過程を、 ボトムアップかつ動的・開放的に理解しよう、というのがクラスター理論の基本姿勢。 経済発展は世の経済学者が金利とか財政支出とか通貨みたいなマクロの政策ツール、GDP、インフレ率、雇用、資本集積、TFP、 みたいなざっくりしたトップダウンの変数から出発して、何百年かけてもまったく解けたとはいえない人類の難題のひとつ (研究対象の変化に学問の進歩が追いついていないだけかもしれないが)。ポーターは主流とは逆の出発点から、「富を生むのは政府でなく企業」 「競争力を持ちうるのは政府でなく企業」「企業の集積地たるクラスターの競争力を決めるのは生産性のみ(製造業かサービスか、外資か内資か、 内需か輸出か、などは本質的論点ではない)」「政府はクラスター競争力向上の過程をファシリテーションすることはできても、 クラスターを創出・育成することはできない」などけっこう刺激的な議論を繰り広げて、 経済学のメインストリームからも一定の評価を得るところまできている。それ以上に経済発展の実務家にとっては、 クラスターはほとんど無くてはならない思考ツールになり、国の競争優位についての調査や統計は、 世銀でも世界経済フォーラムでもポーターの理論に基づいてつくっている。同じ枠組でヘルスケアシステムなり、環境対策と競争優位なり、 精力的に研究と発信の幅を広げている。今更言うまでもなく、マネジメント・サイエンス(="academically rigorous & practically relevant"が求められる分野)で彼ほど成功している研究者を他にあまり見たことがない。

研究にあたっての彼の姿勢ですごいなあと思うのは、競争戦略、という軸足をいっさいぶらさない一方で、 研究対象にしている事象の複雑さ、モデルに今のところ含んでいない変数の潜在的な影響力の大きさ、研究の未完成さを素直に認め、それでも、 ややもすると迷宮入りしそうなスコープにきっちり境界を引いて足場を固めながら、じわりじわりとその境界を広げているアプローチ。 僕が彼に投げかける質問の背後にあるのはそのスコープを更に押し広げようとするチャレンジであることが多いのだが、 そんな質問に答えて彼が言うのは「Acknowledge complexity, appreciate complexity, and celebrate complexity」、でもそう焦るな、はやるな若者よ。まだ分かっていないことが多すぎる。 そんなポーター教授とのやりとりは、自分の学びのフロンティアは今どこにあるのか、を改めて考える上でとても有用だ。

(3)経済(学)観

僕の留学生活は、「日本が世界で生き残っていくために、日本の製造業はどうしたらイノベーションを起こし続けられるのか?」という、 ごく素朴な、かつ、いろんな暗黙の前提に基づいたクエスチョンから出発した。その頃の僕の世界観といえば、 経済価値の実体を生み出しているのは科学者と技術者であり、文系実務家は再分配をして価値の分け前に預かっている存在であり、 報われていない技術者は救済せねばならず、イノベーションの邪魔をするいろんな組織要因を取り払わねばならず、 そのために重要なのは研究開発組織の作り方と予算配分、技術者のモチベーション、知財戦略、R&Dとマーケティングの対話、 顧客についての正しい洞察、トップのビジョンとコミットメントなどであろう、というもの。そして、現場はどろどろ人間臭い問題に溢れており、 そういう問題は個別事情に合わせて解くしかなく、ものづくりをやりながら日々課題に向き合う企業人が一番立派で、 横からそのお手伝いをするコンサルタントは脇役ながらその果たせる役割は大きくて、 金融業はそんなどろどろした営みを横から冷徹な数字で切り分けに入ってくる困ったさんで、 政府は邪魔をしたり邪魔な要因を取り払うのに失敗してばかりのこれまた困ったさんで、 文系の学者はなんだか実世界と遠いところにいてよくわからない、理系の学者は価値創出の上流にいてやっぱり偉い、という、 なんとも偏った職業観を持っていた。スローンの必修のミクロ経済なんかを、 仮定が多すぎて実態とかけ離れていてあまりにirrelevant、と距離を置きながら聞いていた。

そんな偏狭な世界観とか職業観はだんだん変わってくる。まず、文系の学者って偉いかも、と最初に思わせてくれたのが、 スローンのジェームス・アターバック教授。この人はもうおじいちゃんだが、「イノベーションのジレンマ」 のクリステンセン教授とかの師匠にあたる人。企業内の営みに見えるイノベーションが業界単位の動的、 外的なフォースに強力に支配されていることをミクロにきっちり分析し、イノベーションの成功と失敗、 企業の栄枯盛衰が今昔おなじパターンを繰り返している様を衝撃的に解き明かした人。こういうトピックに興味ある人はぜひご一読を (邦訳もあります) 。いまから思えば、電球で財をなしたエジソンが、蛍光灯の登場という適応的課題にいかに防衛的でダメダメな対応をしたか、 みたいなリーダーシップの失敗のケースにも溢れる良書だった。この人と授業の外でもいろいろ話をしたことが、 実務家が頼りにしている判断基準とか、現場感覚だと思っていることがじつはどこかで見聞きした理論に基づいており、 勉強もせずに古臭い理論に縛られていてはいかん、と考えるきっかけになった。また、 アターバック先生はアカデミックにちゃんと順を追って深めるスタイルで、こういう教え方の人はビジネススクールでは少数派なのだが、 さて実践志向だケースだといいながら浅く広くやろうとするMBAスタイルは本当に大丈夫かな、と疑念が生まれたりもした。

さて、そんな学びのあったスローン1年目を終えて、夏にマケドニアでワインやら$100ラップトップやら(前回記事) の仕事をし、個別企業や業界を超えてもうちょっと広く考える、という感覚を、 極めて浅いながらもなんとなく身に付けて帰ってきてケネディスクールが始まる。次に訪れた衝撃は開放マクロ・ 金融経済だった(以下、経済学部とかでちゃんと勉強してた人にはきっと当たり前でつまらなくてすみません、 分野外の人にはマニアックですみません・・・読み飛ばして下さい)。IS-LMモデルの世界からマンデル・ フレミングそしてORモデルの世界へ。視野は一国の経済から世界経済へ。貿易、資本移動、 為替が意思決定主体のパーセプションとか金融当局への信頼感でどう動くのか、 当局同士の政策協調はゲーム理論とかで見るとどんな条件で起きうるのか、金融危機はなぜ起きるのか。思考の次元数が増え、 マクロとミクロに橋がかかり、MBAのファイナンスとアカデミックな経済学がつながった瞬間。水が高いところから低いところに流れるように、 世界金融市場は法則に則ってあたりまえに動くだけなのだが、この法則の複雑さはあきらかに自分の直感・認知能力を超えている。 でもこの世界観がないと、大間違いの素人議論にうっかり乗せられても全くおかしくない。 こういうことをこつこつ考えてきた経済学者たちは本当にえらい、と腹に落ちた瞬間。自分のツールとして使いこなすには到底及ばないものの、 困ったらどこに立ち戻って考えるべきか、誰に相談すべきかくらいはわかる程度に至る。

ほぼ並行して、貿易・通商政策についての理解も進む。アダム・スミス、リカードの比較優位からヘクシャー・オリーンのモデル、 ストルパー・サミュエルソンに来たところでガツンと衝撃。市場開放に伴い相対的に低い生産要素賦与の所有者にとってのリターンはmore than proportionallyに減る、って、グローバリゼーションによる格差社会の到来は必然、って言ってます? (賢い読者諸氏にはお分かりの通り、大いなる誤解であると後で判明)。 市場開放して価格と量の均衡点および消費者余剰と生産者余剰の配分パターンが変われば、国内で勝者と敗者が必ず出る。 こういう業界では各プレイヤーがこういう政治力を行使する、collective action problem云々、という話を通じて、 「キレイな経済」と「キタナイ政治」が頭の中でばちっと重なり、Political Economyという分野の意味するところがようやく分かった瞬間(政治経済、というと獏と聞こえますが、経済政策過程、 みたいな言い方のほうがしっくり)。市場開放に反対して他国を責めても国内では誰も痛まないので、 選挙では大統領候補が経済学的にはめちゃくちゃなことを平気で言ったりしてますもんね。

経済的には、比較優位にもとづき分業特化をすすめる貿易自由化は「必ず」全体の利益になる。 仮に世界中の国が農業保護政策をとる中で日本だけが一方的に米を自由化しても、 国内価格低下による消費者利益が農家の収入減と政府にとっての関税収入減を上回り、日本のeconomic welfareは必ずプラスになる。グローバル市場では価格が上がって他国の生産者は潤い、 その収入増は他国の消費者への価格インパクトを上回る。でも政治的には話はまったく違って、 少数の農家の多大な痛みは多数の消費者のちいさな利益の積み重ねより強く感じられるので、農家の皆さんは頑張って組織化して政治に訴える。 農業にしても牛肉にしても自動車にしても、各業界が政府にプレッシャーをかける中で、 政府は自由化による全体の利益を上げるために誰に泣いてもらうかを考え、外では「うちは肉を開けるから、おたくは自動車を開けてよ」 と交渉しながら、中では泣く人の痛みを緩和すべく再配分と調整の仕組みを整える。経済的にはプラスのはずの市場開放カードを政治的には 「譲歩」と呼んで交換しあう、一見不思議なこの貿易交渉を通じて、マクロにはC+I+G+NX、 という式の各項がじりじり変化して総和が増えていく。

(4)政治経済観

貿易の授業が理論からケースに移り、WTOのメカニズム、リアルな課題、各アクターの行動をつぶさに見ていくと、 ローカルな問題がいかにグローバルの問題に埋め込まれているか、先進国の課題と途上国の課題がいかに相互依存関係にあるかが見えてくる。 ローカル(企業単位)で僕が追っていたイノベーションとか知財戦略は、グローバルでみるとWTOのTRIPS協定という仕組みに現れる。 「イノベーションへのインセンティブを与えるために、発明者の独占権を特許として守る」という理屈と、 「イノベーションの成果へのアクセスを開放して公共の利益に資する」という理屈のトレードオフは、 特許保護期間を調節して各国ごとに解決してきた問題。イノベーションを生む先進国では特許20年、みたいな強い保護が主流 (弱い利害を持つ多数の特許利用側企業や消費者よりも、強い利害を持つ少数の知財産業のほうがうまく組織化してロビイングする)。 一方イノベーションを輸入する側の途上国は、先進国ではまだ特許切れを迎えていない知財も自国内で使いたいので、弱い保護が主流。 例えばインドでは、特許は3年、しかも製造プロセスは保護するが製品については保護しない (リバースエンジニアリングして違う製法でコピーするのは合法)という特許制度がつい最近まであった。 先進国の知財産業は途上国への輸出ができなくて痛む(途上国内に安いコピー品が出回って海外からの輸入品が競争できない)ので、 当然外圧をかけて制度変更を迫る方向に動く。

折りしも1995年に決着したGATTのウルグアイラウンドでは、関税とか量的規制については(農業と繊維品を除き) ほぼゼロに近いところまで削減が合意でき、非関税障壁へと交渉のステージが移っていた(商慣行とか技術標準、投資規制、 サービスの輸出のための国内拠点の設置に関わる規制など)。国同士の取り決めである関税等とちがって、投資規制みたいな制度は本来、 国内の話。これが実質的には外資の参入を阻む要因として自由貿易の妨げになる(全体の利益が伸びない)ので国際協調して変えよう、 という議論は、制度変更を迫られて国内産業が痛む国では当然「内政干渉だ」という拒否反応を招く。グローバリゼーションの永遠の課題、 impossible trinity(市場統合、国家主権、地球公共財は同時に成り立たない)の一例。その文脈で、 知的財産保護制度の違いは事実上の貿易障壁だ、という主張も交渉のテーブルに乗る。

ケースで興味深いのは、GATT/WTOは一見、各国政府の代表が集まって相談している場に見えて、 交渉ごとの進行と結果をPolitical Economyのプロセスを介して後ろから動かしているのはじつに多種多様な非国家主体 (non state actor)だということ。知財保護を交渉の場に乗せるべく最初に動き出したのはIBMとファイザーだった。 ソフトウェアと製薬はもっとも知財への依存が高い産業。これら業界代表の2社は、民間異業種から同盟をつのり、日・米・欧で政府に働きかけ (日本では経団連を動かし)た結果、先進国政府主導で「WTOに加盟するからには途上国でもきっちり知財をまもってもらう」 というTRIPS協定を合意にもちこむことに成功。もちろん、交渉なので途上国側はタダで不利な条件をのむ訳もなく、 途上国の利益となるはずのいろんな合意が同時になされた(それが先進国によって守られのたか、については議論が残る)。 途上国については10年の猶予を設けて、2005年までに特許法の改正が決まる。

この協定の途上国への影響は甚大だ。知財保護がゆるかったインドでは、海外の薬品をコピーした安い薬品(ジェネリック薬) のメーカーが育ち、リバースエンジニアリングして製造技術をひたすら磨いて安く大量に作る、というモデルが成り立っていた。 そういう薬品は特許がまだ切れていない先進国では売れないが、特許法が同じくゆるい途上国には輸出できる。アフリカをはじめとする貧困国は、 知財の対価を払って先進国から薬を買えるわけもなく、インドのジェネリック薬に頼っていた。HIV/AIDSの成人感染率が30%、 みたな南部アフリカで、抗エイズ薬をインドから買うのとアメリカ企業から買うのとでは価格差が数十倍。インドの知財保護を厳しくして、 ジェネリックを作れなくするってことは、アフリカのAIDS、マラリア、結核患者を治すな、ってことですか、と、 TRIPS協定の是非を巡って猛烈な論争が起きる。これを主導したのも非国家主体で、国際NGOの国境なき医師団、 オックスファムが世界中でキャンペーンを張り、途上国政府と連携して「公衆衛生の保護、必須医薬品の入手は、知財の保護に優先される」 というTRIPS修正案をWTOに持ち込む。企業連合は先進国政府を介して修正案を封じ込めようとし、 2001年に修正案に前向きな宣言が採択されたあとも、なるだけ対象範囲を限定しようと動く・・・。

人類はなかなか壮絶な仕組みを発明したものだ。WTOがこれまであった他のどの国際的な取り決めとも違うのは、「強制力」があり 「交渉ごと」なので一見なんでも解決できてしまう点。「強制力」といっても、法を犯せば国の力で裁かれて強制執行もされるし刑も下る、 という国内の法律の世界とは違って、国際間で国のルール違反を裁いて強制力を発動できる世界政府はない。そのかわり、 WTOの協議でルール違反が認められれば、貿易上の損害を受けた国は損害を与えた国に、 報復措置として同程度の損害を与えるだけの貿易障壁を築いてよい、という仕組みになっている。もっとも、 報復に耐えながらルール違反を続けるのも主権国家の勝手で、知らんぷりを強制的に止めさせる正統な権限は誰も持っていない。報復する側は、 知らんぷりが政治的に不可能になるように、 相手側の国内でもっとも政治的に強力なグループが痛手を被るようにターゲットを絞った報復を考えるのだ。

加えて、「交渉ごと」であるというのは、各国がひとつひとつを個別に取り上げても政治的に不可能な市場開放を、各国が「譲歩」 のカードを持ち寄って「痛み分け」(あくまで政治的には。経済的には必ずウィン・ウィン)の形にすることで達成できる、という点。 政府からすると、国内の特定利益を押さえ込みたいが中だけではできないことを、積極的にWTOの舞台で外を巻き込んでやり、国内向けには 「あちゃー、しょうがなかったんだよ、でも代わりに交渉でこれを勝ち取ったんだから許してね」という顔ができる。

政治的、ポリティカル、という時にはなんとなく、中身の議論(ファクトとロジック)でなく関係性とか感情論で決まっている感じとか、 不透明な感じとかが漂って、漠然と悪い印象を持っているだけだった。そんな理解が、実際は、 いろんな利害関係者が自分の利益を最大化するためにきわめて合理的に動く過程がポリティクスで、それは対内も対外も同じ、 というぐあいに変わったのは自分にとっては重要な気付き(こういうのも、 ちゃんと大学で勉強してれば当たり前のことだったのかも・・・)

(5)貿易と開発観

さて、マケドニアで貧困削減プロジェクトをやって、 途上国開発における課題を考え始めたのと時を同じくして上のようなことを学び始めると、どのレバーが途上国の経済発展に効くのか、 というテーマがバックミュージックのように頭の中に流れ始める。改めて考えさせられたのは、これまたWTO関係でGMOのケース。GMO (genetically modified organisms)というのはバイオテクノロジーを使って、 病気に強かったり単位面積あたりの収穫高が大きかったり農薬に強かったり、という特性を持つように遺伝子操作を加えた農作物。 そういうトウモロコシなんかを最初に開発し、商用化し、世界に輸出しようとするのがアメリカなのだが、EUが難色を示す。 遺伝子操作した食べ物の人体への影響とか、これが自然界に放たれたときに生態系に及ぼす影響なんかが心配、というのが理由。 折りしもイギリスで狂牛病事件が起き、食の安全に世間の不安が高まったこともあって、EU各国はGMOの輸入禁止措置をとる。これを、 非関税障壁である、としてアメリカがWTOに訴える。GMOの安全性は科学的に証明されているのか、いないのか、はたまた、 安全とか衛生とか環境に関わる国内規制についての国家主権は貿易協定に優先するのか、しないのか、大論争になる。

そんな中で2002年に起きたのが、アフリカ各国での悪天候と深刻な食糧不足。各国が食糧援助を申し出る中、 アメリカはGMOなら送ってあげる、と言い出す。悩んだのはアフリカだ。 アフリカの農作物で国内消費を上回る部分のほとんどはヨーロッパ市場に輸出されている。GMOを受け入れれば、 農家がそれを消費せずに来年の種に使う可能性が多分にあり、 GMOの輸入を拒否しているEU市場から締め出しをくらって輸出が大打撃を受けるだろう。飢饉で人がばたばた死んでいる中で、 GMOの援助物資は受け取れない、と苦渋の決断をするアフリカ各国政府。そんな状況を、 GMO輸入を受け入れない欧州への攻撃材料に使うアメリカ。アフリカ版「緑の革命」 を実現しようと農作物のイノベーションに励む科学者たちとは遠い世界で、 そんな貿易交渉の駆け引きが繰り広げられる背後にはやはりPolitical Economy。アメリカのGMO研究開発・ 農薬販売の最大手企業、モンサントが市場開放を迫るロビイングをし、グリーンピースが環境キャンペーンを張り、赤十字、WFP、Save the Childrenが食糧援助キャンペーンを張り・・・といった具合。

上の知財保護/TRIPSにしてもGMO/食品の安全性にしても、先進国と途上国、 企業の利益と貧困層の生存がダイレクトに衝突しているのがよくわかる。これらに限らず、「強制力」があり「交渉ごと」 で進められるWTOにはいろんな課題が非関税障壁として持ち込まれる。いわく、 途上国の労働基準がゆるいために低コスト生産ができるのは労働者保護が行き届いた先進国企業にとって競争上不当である、 途上国の環境規制がゆるくて環境コストが低く済んでいるのも不当である、中国国内の人権保護がゆるいのは不当である、等々。深い市場統合 (deep integration)の名の下に、さながら先進国から途上国への社会政策パラダイムの輸出オンパレードだ。もともと、 地球規模の公共の目的のために各国が政策協調するためのしくみは、貿易とは全然関係ないところで国連の関連機関とか条約になっている。が、 WIPO(知財保護の国際連携を目指す国連機関)でずっと棚上げになっていた途上国の知財保護の課題はWTOに舞台を移して「解決」し、 GMOの輸入についてはWTOパネルがBiosafety Protocol(カルタヘナ議定書、 GMOに関わる安全や環境保全を含んだ条約)は適用しません、といって「解決」した。USTR(米国通商代表部)に勤めていた友人は、 「我々は環境の専門家でも知財の専門家でもない・・・他で解けない課題が貿易交渉に押し付けられてばかりで、 この体制では持続不可能だとおもう」と嘆いていて、交渉するほうも大変そう。でももっと大変なのは、 キャパシティがなくて交渉カードの重みも低い(開放する国内市場の魅力が低い)途上国だ。

ミクロの国内経済政策が国際的に規制される範囲は増える一方。国内産業が未成熟なうちは、 国際競争力を持つまで世界市場から保護すべき、という議論(infant industry:経済学的に妥当かは賛否あり)は昔からあるが、 保護関税に限らず、補助金とかあからさまな特別税制とかは非関税障壁とみなされてWTO加盟国はもう取ることはできない。 インドの製薬業界は、知財保護がゆるかった時期に製造技術を磨いてキャッシュを蓄え、 TRIPSが成立したタイミングでR&D投資と新薬開発に戦略転換して順調に発展している。世界級になっていたIT産業と連携して、 バイオテクノロジーとかバイオインフォマティクスの将来性も注目されている。こういう、(日本の自動車にもある意味似た) 産業発展の形態は多くの途上国ではもう不可能に近い。韓国は補助金、税制優遇、研究開発支援で国を挙げて半導体産業を作り、 いまやサムソンがGDPの1割強を稼いでいる。そういう政策は貿易協定が今の形になる前だから取れたのであって、「先進国や新興国は、 自分が登ったハシゴを外して最貧国を蹴落とすのか」という議論も起きる。アメリカの経済学の先生に「いやいやpicking the winnerは正しくないんだよ、日本の産業政策もよくみたら沢山外してるんだよ」と言われても、そりゃ簡単には納得すまい。

もっと直接的に途上国にダメージを与えているとされるのは農業だろうか。アメリカが国内農業の保護のために出している補助金は、 途上国支援の予算とは比べ物にならないほど大きい。本来コストが高いはずのアメリカの農産品は、補助金の保護を受けて輸出され、 世界市場での農産品の価格を押し下げ、途上国の農業の輸出機会、生産性向上機会を奪っている、とされる。世銀は最近のレポートで、 先進国の農業に関する補助金・関税を廃止すれば生産要素の再配置が進み、2015年までに世界のGDPが3,000億ドルほど増え、 貧困ラインから浮上する途上国農家の数ははかりしれない、といっているが、農業ばかりは食の安全、食料安全保障、食「文化」、 環境保全等々が絡んで益々ややこしい。 どこに落ち付けるにしても先進国の農業が補助金漬けじゃなく産業として競争力を上げて自立する施策が伴わないと移行が効かないのだろうが、 主だった先進国ではそんなの政治的にまず無理、という風に見える。

あるいは、もっと一般的に途上国から先進国への貿易を時折妨げるのがアンチ・ダンピング(AD)。ADというのは輸出国が 「コストより低い価格で」安売り販売(ダンピング)することで輸入国の国内産業が「不当に」打撃を受ける事態を避ける仕組みで、輸入側が 「国内の手続きを経て」相手がダンピングしていると認めた場合にはADを発動して防衛的な障壁を築いてよい、ということになっている。 動機はフェアに聞こえるが、ふしぎなのは相手側のコストを算出する仕組み。 ミクロ経済の初歩で企業にとっての利益最大化点は価格=限界コスト(MC)、というのがあり、 アメリカは国内の競争法では同様の考え方で限界コストを元に不当廉売かどうかを判別するのだが、なぜか輸入品については平均コスト(AC、 固定費を含めて計算するのでMCより高くなる)を使う。その結果、「いや、採算ラインぎりぎりで商売してるんですけど」 という輸出企業がアメリカから締め出しをくらったりする(日本の鉄も締め出されたりしている)。経済で考えるとどうみてもおかしいでしょ、 という話が、政治で見ればごく当たり前。国内の利害を調節してできる国内法とちがって、対外のADについては国内企業の利益が一致する (消費者は損してるのだが、ちいさな積み重ねなので政治力にならない)ので、 WTOで諸外国からどんなに文句がつこうが議会は変更を通さない。

*  *  *

さてそんな具合に、経済発展は国際的な枠組とその変化のトレンドに乗っかったり弾き飛ばされたり、 国毎のマクロ政策が成果を生んだり裏目に出たり、ミクロに国境を越えた営みが積み重なったり、 時にはミクロなプレイヤーが組織化してマクロとか国際枠組を動かす強力なフォースになったり、みたいな複雑系を介して起こるのだなあ、 ということが段々わかってきたのが2年目の成果だった。民間セクター開発を通じた貧困削減、 というものに始めて片足踏み入れた1年目の末には、そういう背景は全然見えていなかった。でも勉強しながら考え直してみると、 開発努力という力がくるくる小さく動き、それを凌駕して余りある大きな力が逆方向にぐるぐる回っている系の中で、 開発の仕事のうちどれほどが正しいボタンを押しているのだろうかしらん、みたいな世界観がなんとなくできてくる。

ポーター教授の授業でクラスターの分析をやる時は、先進国でも途上国でも同様に、 過去の諸々のできごとと現在のパフォーマンスとの因果関係を精査し、将来のパフォーマンスを上げるためのレバーが何かを考える。 これまでの学びの文脈に位置づけなおせば、産官学の活動を幅広に捉えるクラスター理論の対象範囲の(結構な透過性と伸縮性のある) 境界面の外には、ヨコとタテの広がりがある。ヨコには、官側には投資誘致や貿易促進の前提になる多国間協定とか国内政策についての制約条件、 民側には多国籍企業の国際戦略論。タテには、国際関係とかマクロが上にあり、下にはpolitical economy、 社会政策とのフィット、広く社会・文化的な要件、また、もっとミクロに投資誘致とかセクター間の協業促進の鍵となる国内機関の組織能力 (institutional capacity)等がある。ヨコのつながりについては、 WTOとか地域経済協定加入とかのexternal disciplineをどうクラスター発展のアンカーとして使うか、 という議論がおそらく領域の境界線上にあり、それより先は、当事者や問題設定が変わってくるのでポーター教授もおそらく踏み込むまい。一方、 タテに踏み込む余地は大きくて、ポーター教授は論文や本で選択的に社会・文化とクラスターの関係をコメントしていたり、 授業でもチラリと言及したりする。3年目に僕が注力している範囲はほとんどこのタテに沿っていて、個人的な関心も組織能力開発 (前回記事で最後に書いたような内容)とか文化適応(ディーン・ウィリアムズの世界)をクラスターを出発点に掘り下げてみることにある。

・・・ヨコの話でえらく長くなってしまったので、この先はまた今度。タテの広がり、補講での発見とワインの話。 暇をみつけてちょこちょこと書いています。

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コメント


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この記事を書くのに何分ぐらいかけました?
物凄く多い量なので、感動ついでに質問させていただきます。

ym | URL | 2008-03-11(Tue)10:53 [編集]


えらい長いですよねえ、やっぱり。思いついたときにちらちら書き溜めること数日、です。

konpe | URL | 2008-03-11(Tue)19:04 [編集]


>「日本が世界で生き残っていくために、日本の製造業はどうしたらイノベーションを起こし続けられるのか?」という、ごく素朴な、かつ、いろんな暗黙の前提に基づいたクエスチョンから出発した。
日本の製造業の中の人としては気になるところなので、これに答えが出てたらこっそり教えてください。

くろき | URL | 2008-03-20(Thu)08:24 [編集]


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