konpe's 夜の仕事記

民間セクター開発、BoP、Clean Tech

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進歩と文化

Dean Williams教授の異文化リーダーシップ授業が盛り上がってきた。2年間留守にしていた先生だし (マダガスカルに行ってたため)、前評判もないので少人数で始まっていたものの、1週目を終えてからは先学期のハイフェッツ受講者を中心に 「とてもいけているらしい」と口コミで広がり、聴講者が押し寄せてたちまち結構な大所帯に。TAとしては嬉しさ半分、仕事が増えて悲鳴半分。 授業が問いかけるキークエスチョンは、「社会・文化・共有価値観に深く根ざした行動様式が、 新たな機会と脅威に対して機能不全に陥ったときにいかに変革を進めるべきか?」  学生自身の失敗談を扱うため内容がConfidentialだった先学期の授業とちがって、今期のは心置きなく書けます。

今週は映画を一本見て、みんなで失敗の原因を議論。映画はBlack Harvestといって、 パプアニューギニアの農園開発を描いたもの。 撮影チームが原住民の村に張り付いている間にたまたま起きた出来事をひたすら取り続けたドキュメンタリー。 農園で働く原住民たちの間で戦争が起こり、撮影チームメンバーもヤリで刺されたりとなかなか大変で、 ドキュメンタリー制作についてのドキュメンタリーまで作られたそうな。以下、続きを読む前にこっちゃんのサイトにある映画あらすじをご参照のこと。

black harvest

さて、どうしてこういう事態になってしまったのか? クラスの討議は、主人公ジョーの診断からはじまる。ことある毎に文句を言い、 二言目には金をくれと言い、コーヒー農園をほったらかして部族間争いばかりしている原住民たちに、憤慨し、落胆し、 最後には諦めてしまうジョー。オーストラリア人と原住民のハーフであるジョーは、原住民の言葉もしゃべれるし文化も理解しているが、 肌はほぼ白いし原住民にはサッパリ分からないビジネスの事情もよく知っている。一見、ふたつの文化、習慣の間に入って移行・ 共存をはかるのにうってつけの立場にも思えるが、じつはどちらのコミュニティにも属することができない哀れな男、という見方が大多数。 ジョーはオーストラリア人の父からは息子として認知してもらえず、オーストラリアの市民権も持っていない。父から受けた扱い(拒絶)を、 自分を慕う原住民に対しても投影せずにはおれない、部族の集落から離れた丘に建てた自宅が心理的な距離をもよく象徴している、云々。

ここで教授から、個人ではなくシステムを診よ、とのサジェスチョン。 ハイフェッツ授業を既に受けている学生にはお馴染みの原理原則その1だ。思考の道筋は、「個人間(interpersonal)の衝突、 誤解、意見の食い違いは、構造的(systemic)な課題の兆候にすぎない」、「自分の中に沸き起こる感情やとっさの反応は、 自分に期待をかけ投資をしている人々(constituency)への忠誠(loyalty)の表れにすぎない」、「システムの不協和は、 かつては調和していた、その場にいる各々が所属するサブシステム(faction)の歴史観、価値、行動原理が、 新たな局面への適応を求められているサインにすぎない」、等々。見えやすい個人の行動や技量や感情につい目が行くのは人の常だが、 文脈から切り離して個人に焦点をあてたアマチュア精神分析は対症療法しか生まず、興味深くはあってもそれ自体が本当になすべき仕事の邪魔 (distraction)でしかない。

ここぞとばかりに口を開き始めるハイフェッツ経験者たち。原住民たちの、土地と一体化して暮らし、 領土を侵す者を敵とみなして争ってきた歴史、戦いに強い男が尊敬され重んじられてきた社会構造、長く白人に支配され酷使され恩を着せられ、 自分達の未来に対する責任感が失われてしまった精神構造・・・注意深くみると、言葉や行動の端々からパターンが読み取れる(listen to the songs beneath the words)。絡み合った諸々の背景が、一見不合理で非生産的な振る舞いに表れる。 投資をして労働をして生活水準を上げる、という、ジョーが持ち込んだ機会はたしかに魅力的だった。が、機会を手にするための新たな行動様式・ ・・作った農作物は世界市場の価格変動リスクに晒されること、労働の妨げになるような争いが起きないよう、 部族間の関係を築きなおさねばならないこと、年長の男性も若い女性も同様の仕事をして同様に対価を受け取ること、 労使の関係は約束に基づいて決まること・・・はどれも、根深い価値観の見直しを迫る「適応的課題(adaptive challenge)」 。

すべての現象は個人・個人間レベルでなく構造レベルの課題と関係づけて診断すること、すべての行動は人々を正面から課題に向き合わせ、 自ら課題に取り組んで学習が起きるための介入としておこなうこと(put the work at the center)。 お馴染みの原理原則その2だ。組織や社会が予め正解を持たない適応的課題には、対話、実験と振り返り、発見と学びのサイクルを回し、 アイデンティティの一部に埋め込まれている見えない前提を意識に上らせ、進みたい方向に照らしあわせて、 諦めて捨て去るべきものと妥協できないものとを人々がひとつひとつ峻別してゆくしかない。映画開始後10分のうちに、 ジョーは植民地支配さながらに「お前達はコーヒーを摘み取りさえすればいいんだ」と言い放ち、原住民の反応には不適応のサイン (=振り返りと学びの機会)があふれているにも関わらず、口論をしては「もううんざりだ」といって立ち去ってしまう。失敗は、 最初から予見されていたのだった。

*  *  *

では、どうすればよかったのか? この問いに直接答えるかわりに、ウィリアムズ教授はマダガスカルでの経験を話し始める。 近年のマダガスカルの大仕事は経済の建て直し、市場開放、投資誘致、輸出産業の育成だ。ジョーが村でやろうとしたことを、 国レベルでやったともいえる。国には7,500の原住民の村があり、それぞれ市場経済とはかけはなれた独自の風習にそって生きている。 投資意欲がある国際企業は主に鉱工業ということもあり、環境保護の国際NGOが目を光らせる。世銀、 IMFは各々の政策的思惑を持って条件付支援を持ちかける。政府が直面する事態の複雑さは、1つの村、2つの価値観の衝突、 という映画のモチーフとは比べ物にならない。

マダガスカルのある村では、毎朝何時間もかけて川まで歩いて水を汲みに行くのが女性たちの日課だった。 生産性が悪いことこの上ないのでドナーの資金を使って井戸を掘る。しばらくすると、井戸は何者かに壊されてしまう。いったい誰が何故、 とよくよく話を聞いてみると、壊したのは井戸の便益を得るはずの女性だった。「水汲みは昔から続く大事な仕事である」「女性たちが集まり、 川まで歩きながら話し合う、社会行事でもある」「何より、1日のうちで男どもの元を離れて自由になれる、唯一の時間だった」・・・ 男性絶対優位の社会で、女性が表立ってそんなことを口に出せるはずもない。経済活動に使う時間を生むはずの井戸の出現は、 価値体系と生活習慣の根本を揺るがす出来事だった。一見、技術的処方(technical fix)で済むように見えるが実は適応的作業 (adaptive work)が必要な課題の典型例だ。

適応的作業には必ず、不安、迷い、苦痛、抵抗、逃避行動がつきまとう。それらを受け止めて人々を課題に正面から向き合わせる環境 (holding environment)を構築し、ストレスレベル(disequilibrium) を学びが起きるには充分高いが混沌に陥るには至らない範囲(tolerable range)に抑え、対話をはじめ、 衝突を指揮するところから適応の仕事ははじまる・・・原理原則その3だ。原住民の村々を代表する7,500人の酋長が、 全国から首都アンタナナリボに集まり、小グループに分かれ、ファシリテーターが付いて学びの合宿がはじまる。さぞ圧巻の光景だっただろう。 皆がそれぞれの物語を持っている。「白人の作った学校に子供を行かせると精神を誘拐される」との3代前の酋長の言葉に従って、 教育を一切拒絶していた村。工場が建ち、酋長と新しく生まれた金持ちとの間で権力構造が分断し、内戦寸前になっていた地域。 村々に埋もれていた問題、試行錯誤の過程とその帰結が、開放され、共有され、驚きと発見と学習を生む。そんな対話は、村・地域から大臣間、 国際機関や企業まで重層的に行われ、政府がまとめるマダガスカル・アクション・プラン(MAP)に集約されていく。 そこに書かれた開発戦略が経済学的に最も正しいかどうか、ということより、あらゆるレベルのリーダーが戦略策定に関わり、 責任感と目的意識と社会資本が生まれ行動変化へのコミットメントが生まれたことのほうがずっと重要。 プラン作りの過程そのものがholding environmentともいえる。

ギニアやマダガスカルの原住民の文化適応なんて、君らのこれからの仕事とは関係ないと思うかもしれない。が、一見非合理に見える行動 (井戸を壊す)の背後にある根深い構造要因に、先入観や憤りでなく開かれた目と無垢な好奇心で向き合うこと。 異なる信条をもち抵抗を示す人達を敵対視するのではなく、まだ気付きが起きていないためにつまづいているだけの「旅の同行者」として助け、 手を引いて歩く姿勢で接すること。自身の価値観や行動がいかに問題を悪化させているか、いかに自身に変化が必要かを認める勇気をもつこと。 これらは、変化を起こす時にかならず直面するチャレンジだ。映画にあった、原始的かつ迷信に満ちたもろもろの行動や、 現実から目を背けて逃避行動(部族間争い)に走るさまが、いかに自分達が属してきた組織や社会と共通しているか、考えてみてほしい。そして、 自分が属する文化が適応的課題に直面したときに自分がどう行動できるか、思いをめぐらせて見てほしい。・・・ 内戦とか植民地支配した側された側の歴史、というモチーフ自体、大部分の学生に訴えるものがあり、皆それなりに学びを持ち帰った様子。 教室の外でも議論は続き、読み物や日々の生活も相俟って、次回の授業までの間にバックミュージックのように思考が巡る。

*  *  *

授業の後に、教授とTAとでブリーフィング。うーむ、マダガスカルの事例は、開発チャレンジにおける能力構築(capacity building)への成功アプローチをイメージできた点ではよかったけど、映画の中のジョーにそれができたかどうか、 については議論が及ばなかった。マダガスカル大統領は飛躍的な経済成長と貧困からの脱却にコミットして、 危険を冒しながらも改革断行する意志のある人だったし、だからウィリアムズ教授のような人をアドバイザーに迎えたりもした。 一方ジョーはビジネスマンで、農園をやった目的は村を救うことでもグローバル経済への文化適応をすすめることでもなく商業的成功だ。 衝突する価値観より一段高い目標を示して、なぜ行動変化が必要かを執拗に説き続ける動機は彼にはあったのか?  幼少時代を共にすごしたはずの部族への帰属意識と現状への危機感、集団の問題解決を自身の責任と受け止めて行動を起こす志はあったのか・・ ・? ない、と決め付けるのは尚早だろう。映画の後半、ジョーは原住民を見限って父子関係認知の書類に父のサインを取り付け、 オーストラリアでの定住と平穏な家族生活に向けて動き始める。が、村で戦争が起き、 多数の原住民が死んでいることをオーストラリアで撮影チームから告げられると彼は涙を流すのだ。

自己利益より高次の目的意識(sense of purpose)を打ち立てていること、さらには文化的、組織的、 社会的な暗黙の束縛から自由になって"sense of agency"を持つことは、 適応的課題に求められるリーダーシップの前提条件のように考えられている。 ケネディスクールに来ている人でそれらを全く持たない人などいない。チャレンジは、 難しい局面で圧力に屈せず妥協せずに行動を貫くことだったり、他のことがらに対して優先順位を保ち続けることだったりする。他のことがら、 というのは単なる自己利益に限らず、映画の中のジョーの父子関係のように、生まれ育ちからくるきわめて個人的な脆弱性とか家族・ 同胞から受け継いだ歴史観からくる、容認、力、親密さなど手に入らなかったものへの半盲目的な渇望(hunger)も含まれる。 それらに起因する誘惑や行動のぶれ、状況診断にあたっての盲点は、困難な局面で容易に命取りになる。一方、それら個人的な要因を、 文脈から切り離して「治療」しようと努めることは、一時しのぎにこそなれ、状況が刻一刻変わり、新たな課題に次々直面する助けにはならない。 だからケネディスクールのリーダーシップ教育は目に見えやすい集団力学(group dynamics)に、構造レベルの診断 (social system dynamics)と自身の個人的・内面的探求(psychodynamics)の両方からアプローチし、 どんな構造課題が個人的な困難を生むか、いかに構造課題がグループ内対立に投影されているか、といった並行現象(mirroring) への感度を鍛える設計になっている。

ジョーはリード「すべき」だったのか・・・適応的作業が人々だけでなく自分にも苦痛と犠牲を強いるものだとしたら、 それでもなぜリードするのか? この問いかけは、前回も今回も授業の前に教授と頭出しをしつつ、 授業ではまだ持ち出せていないトピックのひとつ。そういうものに正面から切り込むPAL-164(ハイフェッツの冬期集中クラス)、 人によっては後半からそこに触れ始めるPAL-101(ハイフェッツの秋学期のクラス、今年の春学期は同じ授業をウィリアムズが担当) と違って、PAL-102(異文化リーダーシップ:本授業)は、自身の失敗との対峙とか、 クラスのダイナミクス自体をケースとして分析しては介入する精神的負担とかを求めない。そういう類の学びを起こす環境(holding environment、level of disequilibrium)を維持することは教える側の負荷も高く、 個人的に傷つく人へのフォローアップ体制も必要で、PAL-101と並行して2つもやると、さすがの教授も持たないからだ。その「制約」 の中で、充分意味のある学びを提供できる授業をどうつくっていくか? リーダーシップ授業も日々適応的課題なのだった。

来週も映画を1本、今度はパプアニューギニアの隣の島に企業が直接投資して、コミュニティがめちゃくちゃになった後の建て直しの話・・ ・ちょっと開発実務に近い話かもしれません。さてさて、議論はどこまで進展するか。

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コメント


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結局のところ文化(社会システムって言った方が抵抗少ないですか)を変えないとどうしようもないですかね。それを変えるために必要なのがリーダーシップなんでしょうか。

くろき | URL | 2008-02-18(Mon)09:24 [編集]


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